投稿

11月, 2021の投稿を表示しています

それは僕らのものではない  ―高野ムツオの震災詠について―

 高野ムツオが『あの時 俳句が生まれる瞬間』(朔出版)を上梓した。『語り継ぐいのちの俳句 3・11以後のまなざし』(朔出版、二〇一八)所収の第三章「震災詠一〇〇句 自句自解」を佐々木隆二の写真とともに再構成し、加筆修正したものである。収録された一〇〇句はいずれも『萬の翅』(角川学芸出版、二〇一三)『片翅』(邑書林、二〇一六)の収録句だ。  『あの時』を読み進めていくと、高野の震災詠とははたしてどこまで個人のいとなみとして行なわれたものであったのか、次第に疑問に思われてくる。  靴を鳴らして魂帰れ春の道  この句について高野は「ベランダから毎年見える微笑ましい光景」としての「園児たちの春の散歩」であるとし、「津波にさらわれた子供たちも、きっと、その列に加わっているに違いない」と記す。制作されたのは震災の翌年。すでに一〇年が経過し、当時この句に詠まれた生者としての園児たちは一〇代の若者になっていることだろう。一方で、「津波にさらわれた子供たち」は―。  自解をふまえるなら、この句が傷ましいのは、この句を読み返すたびに、「津波にさらわれた子供たち」の「魂」が詠まれた時点やこれを過去に自分が読んだ時点から物理的な時間が経過してしまっているのをいつも感じるからだろう。そして、死者と生者とに突然分断されてしまったということの取り返しのつかなさに、いつでも読み手を立ち戻らせるからだろう。この取り返しのつかなさは、かけがえのない対象を喪失したという悲哀にのみとどまるものではない。その悲哀はともすれば、言葉にできないほどの虚しさへと転じていく。  いわばこの句は、いつまでも明けることのない「喪」の時間へと読み手を引き込んでしまうのである。このような高野の仕事は、「津波にさらわれた子供たち」を我がこととしてとらえるようなまなざしから生まれたものではないだろうか。この句に限らず、『あの時』には高野個人を超えた主語によって詠まれたかのような句が散見される。   クリスマスプレゼントだと遺骨抱く  十二月二十五日付の新聞に、津波で行方不明だった少女の遺骨の欠片が父親のもとに戻ったという記事を見つけた。(略)父親は避難先の長野県白馬村から六年近く捜索に通い続けていた。喜びながらも「すべて見つけるまで捜し続ける」と語っている。遺骨を抱き、「娘からのクリスマスプレゼントを受け取った気がする」と呟い