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神野紗希は溺れない ―『すみれそよぐ』について―

 昨年刊行された神野紗希の第三句集『すみれそよぐ』(朔出版)を初めて読んだとき、ひどくつらい気持ちになってしまったのを覚えている。神野自身がいうように、この句集は神野の二〇代末から三〇代半ばにかけての句が、結婚・妊娠・出産・育児というライフステージに沿って編集されている。僕が悲しい気持ちになったのは、この句集から立ち上がってくる女性像が、見事なまでに自己マネジメントされた母親としてのそれであるからだ。   左手は涙拭う手冬の星  この句における右手は子どもの手を引いているのか、あるいは荷物を持っているのか、いずれにしても公的にふるまう手であって、だから、そうではないほうの手―すなわち左手―で自らを慰めるのである。どうして両手で涙を拭わないのだろう。子どもの手を振りほどいたり、荷物を投げやったり、そんなふうにふるまうことをどうしてしないのだろう。いや、そもそも、なぜ涙を拭わなければいけないのだろう。  神野はどうしてこれほどまでに自制的・自律的でいられるのだろう。この句は涙を流しているときだって我を忘れることのない者の句だ。『すみれそよぐ』の終盤に〈初雪の空暗ければ手を繋ぐ〉があるが、手を繋ぐことを決して忘れない者の句だ。そして何より、自らの左手や自らの涙のありようを描く右手を失うことのない者の句だ。だから、この句にはどこか余裕さえ感じられるし、その意味では、とても強い者の句だと思う。  でも、この句にはどこか危うさが感じられもする。たとえば、この句に描かれている主体は、まるで自明のことであるかのように、右利きの人間として想定されているように見える。この迂闊さは何なのだろう。考えてみれば、『すみれそよぐ』とは個別具体的な状況に依存した判断の求められる日々を書き留めた句集である。〈左手は〉の句において、この句に描かれている主体が当然のように右利きとして想定されているのも、この句集全体が私小説的であるのも、そうした日々のなかで書かれた句を編んだものだからであろう。神野は、どこまでも自制的・自律的であろうとしながらも、その一方で、自律的ではありえない身体感覚を経験しているさなかの自身や、必ず誰かのケアを必要とする子どもの姿を日々書き留めてきたのである。   母子手帳に数字満ちゆく青楓  この句の「数字満ちゆく」は、はたして、たんに子どもの成長への喜びを表しているだけだろうか