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かなしき『菊は雪』

 佐藤文香が第三句集『菊は雪』(左右社)を上梓した。そのなかのどちらかというと地味な次の句について、まずはしつこく考えてみたい。   鎌倉や雪のつもりの雨が降る  虚子の〈鎌倉を驚かしたる余寒あり〉について、かつて山本健吉は「鎌倉の位置、小じんまりとまとまった大きさ、その三方に山を背負った地形、住民の生態などまで、すべてこの句に奉仕する」(『定本現代俳句』角川書店、一九九八)と述べた。「余寒」をあえて大仰に述べることで、この句は鎌倉の地理的な特徴やその歴史性をうまく言いとめている。この句の表現としての新鮮さは、たんなる「余寒」との取り合わせによるのではなく、むしろその大仰な言いあらわしのもたらしたものだろう。同様に、佐藤の〈鎌倉や〉も鎌倉と雪との取り合わせを詠んだだけのものであったなら、ひどく凡庸な句になったと思う。  「雪のつもりの雨が降る」とは雪のような雨、つまり霙のような雨ということだろうか、雪が降る予定であったのだが実際には雨が降っているのだ、ということだろうか。雨を擬人化しているような遊び感覚を含んでいるようにも見える。いずれにせよこの句の場合、「雪」を「のつもりの雨」へと外していくという言いあらわしかたにおもしろさがある。のみならず、凡庸な句になる可能性を読み手にちらつかせつつ、それを外すという詠み手の手つきを提示しているようにも見える。ただ、この種の「外し」の趣向自体はとりたてて目新しいものではないから、その点において、この句はまたしても凡庸さへと接近してしまう。  しかしそれでもなお、この句が凡庸さを免れているのは、「鎌倉や」といういかにも大味な切りかたとそれ以降の力技で押し切るような表現にあると思う。もしも「雪のつもりが雨の降る」「雪のやうなる雨が降る」であればずっと理解しやすい。そのように書かないから、どうしてもあいまいさが残るのである。ただ、わかりやすい書きかたをすると、今度は先に述べたような「外し」の趣向が前景化し嫌味な印象ばかりが目立ってしまうし、そもそもそのような「外し」で満足してしまうようなふるまいこそが凡庸さを招き寄せる要因ともなってしまうである。  だが、だからといって「雪のつもりの雨が降る」をそのまま提示してしまうのでは、読みとりのやっかいな、いわば間口の狭い句になってしまう。しかし「鎌倉」と取り合わせることで、「鎌倉」の喚起する