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ひらがなを書きつける指先について

 先日思いがけない俳句との出会いがあった。詩歌や評論を発信するサイト「詩客」(二〇二一・一・一六配信)に掲載された大西菜生の句だ。「みえない海辺」と題された十句からいくつかを引いてみる。  書くことをわすれるねむり冬至の日   大西菜生  救済措置とられてこの雪をあげる  あけて こどくは春の日記にもういっぱい  うちかえす波をぼくらのヒヤシンス  さくふうをゆったり知らす初夏の夜  いまは逃して栗の花びらだけの庭  おおうものなくなるからだ西鶴忌 (http://shiika.sakura.ne.jp/works/haiku-works/2021-01-16-21338.html)。  大西はかつて僕の勤務する高校で俳句を書いていたひとりである。プロフィールに「明治大学俳句会所属」とあるから、卒業後はここで俳句を書いていたようだ。いま、手元に四年前の作品がある。高校三年生の時のものだ。  春の日をわすれたひとと森で会ふ  しあはせな人間だつたのけふ初秋  うららかやことばが生きてゐる証拠  藍浴衣ことばは人間を使ふ  万緑やひと並みに見る夢のなか  腐つてもねむい銀河の見える部屋  金星の女のひとへ ぼくはふゆ  「詩客」に掲載された句だけでは判断しかねるが、仮名遣いが変化したことと切れ字が見られなくなっていることがうかがえる。どうやら、ある種の俳句らしい体裁を、大西はどこかに置いてきたらしい。とはいえ、作風や語彙はそれほど大きく変わっていない感じがする。技術的な部分でもそれほど変化したように見えない。ただ、ほとんど無駄にさえ見えるひらがなの多用によって、まぎれもなく大西の句であることはわかる。そして、こうして句に再会してみると、大西のひらがな表記は、単発的な方法というよりも、書き手としてのありかたと深くつながっているものであるらしいことに、改めて気づかされる。  たとえば、「さくふう」は「朔風」「作風」の二種類の漢字をあてることができる(あるいは「咲くふう」なのかもしれない)。「朔風」は北風のことだから、「初夏の夜」とあることを考えれば、「作風」が正解なのだろう。ただ、読み手の僕らは通常「作風」をひらがなで書くことがないから、本当にこれで正しいのか不安になる。ようするに多分にひとりよがりで、その意味では不親切な句なのである。  でも一方で、こんなふうにも想像する