「ぼくら」に織り込まれた「わたし」
暮田真名が川柳句集『ふりょの星』(左右社)を上梓した。二〇一七年から書きはじめた暮田がこれまでの作品から二五〇句をまとめたものである。 いけにえにフリルがあって恥ずかしい 県道のかたちになった犬がくる 十字路がある水でよかった 寵愛を受けて現像液のなか ティーカッププードルにして救世主 その「あとがき」で暮田は次のようにいう。 私は川柳に自分の名前を教えたことがありません。 川柳は私から何も聞き出そうとしません。私の性別も、だれと親しく付き合っているのかも。いままでに経験したかなしみやよろこびも、なにを憎み、なにを大切にしているのかも。どんな本を読み、なにを美しいと感じるのかも。 それで私は安心して書きはじめることができたのです。 暮田は『ふりょの星』刊行に伴いウェブ上で短期連載を行なっている。その第一回「川柳は(あなたが思っているよりも)おもしろい」では、川柳が「『五七五で季語がいらないやつ』であると同時に『サラリーマンが会社や家庭生活の愚痴を吐き出すための手段』であり『時事ネタを絡めたダジャレみたいなやつ』であるというパブリックイメージ」を作り上げているサラリーマン川柳について述べている。 最初に紹介した過去3年の受賞作とあわせて考えれば、「第一生命サラリーマン川柳コンクール」という場において前提とされる「サラリーマン」とは必ずといっていいほど妻ないし子を持っていて、つまり「家庭」を築いており、家庭内では適度に疎まれているものの、会社と家庭の板挟みにも耐えられる健康な心身を持ち合わせ、「理想のプロポーション」を失った妻へ非難の視線を向けたり、妻のとりとめもないおしゃべりに嫌気がさしたりしている「男性」であることが分かるだろう。(略) サラリーマン川柳の「笑い」を支えているのはおびただしいほどの固定観念と規範意識である。 暮田の志向する川柳とは、いわばこうした「おびただしいほどの固定観念と規範意識」から離れることで「安心して書きはじめる」いとなみによって生まれるものであるのだろう。 先のウェブ連載において暮田はサラリーマン川柳とは異なる川柳の例として、なかはられいこの『脱衣所のアリス』(北冬舍)を紹介している。 かつがれて春の小川になってゆく 朝焼けのすかいらーくで気体になるの またがると白い槿になっちまう ところで、以前...