ETV特集「戦火のホトトギス」に思うこと

 八月二一日、NHKのETV特集の一つとして「戦火のホトトギス」が放送された。戦時下のホトトギスの雑詠欄から数名の投稿者を選び出し、その人生をひもとくというドキュメンタリー番組である。

 番組冒頭では、ホトトギスが戦時下でも発行され続けたことについて説明がなされている。今年で創刊から一二四年目を迎えるホトトギスだが、四ヶ月だけ発行が止まったことがあるという。稲畑廣太郎は現在も社に保管されている昭和二〇年発行のホトトギスを紹介しながら、昭和二〇年六月から九月までが欠けていること、つまりこの期間だけが発行されていないことを紹介している。

 番組の趣旨はあくまで戦時下―とりわけ前線においてどのような句が詠まれたのか、そして句の背景にはどのような人生があるのかを明らかにすることによって、戦時下の人々のありようを現在に伝えるということにあるようだった。だから、紹介される俳句や投稿者について、俳句表現史・俳壇史的な観点からの踏み込んだ解説はなされない。俳人ではなく遺族や投稿者を知る人に句を見せて、彼らが句と対峙する姿を映しているのも、そうした趣旨によるものだろう。

 この番組を観ながら、その悲哀に彩られた戦時下のホトトギスの物語に違和感を持ったのは僕だけだろうか。たとえば、昭和二〇年二月号の雑詠欄を開きながら稲畑は「このころはもう戦況がだいぶね、悪化してるんですけれども、それでもこのね、いわゆる派遣された方がね、投句なさってるわけですね」と語る。ここから番組は「投句なさってる」「派遣された方」の句と生涯の紹介へと移っていくのだが、このような構成に象徴されるように、ホトトギスが戦時下においても発行され続けこうした人々の声(番組ではそれを「挨拶」、「存問」という言葉と結びつけていた)を受け皿となりつつ、同時に人々に届け続けたという美しい物語が成立するということには触れても、その物語の背景の持つ暴力性については触れられない。「四ヶ月だけ発行が止まった」ということはたしかに驚くべき事実かもしれない。戦時下におけるホトトギスの投稿者の懸命な姿を描き出そうとするこの番組では、この事実を、他の俳誌を圧する歴史と権威とを持つホトトギスでさえたった四ヶ月だけ発行が止まってしまうほどの戦時下の過酷さへの驚きとして解釈しているようだった。しかしこれは、ホトトギスでさえ四ヶ月発行が止まったということではなく、むしろホトトギスだからこそ四ヶ月ですむことができたということでもあるはずだ。

 戦時下において用紙不足や思想統制によって多くの俳誌が休刊や合併に追いやられたのは周知のことである。

日本文学報国会俳句部会幹事会での俳誌統合議決において主宰誌「草上」を「曲水」に吸収された伊藤月草の憤怒を石塚友二は「ホトトギス本誌は勿論のことで、これに対してがまず異存ないとしても、ホトトギス系の雑誌で無瑕のまま残される数が、ホトトギス系以外で強制的に統合せしめられる書誌に比し、不合理に多すぎる、そして、その不合理を当然とするかのような態度で、高圧的にその線での議決を強行し去つた幹事会なるものは、俳壇におけるホトトギスの横暴そのものに他ならぬ、といふのであった」(「俳句」昭41・11)と伝えている。俳誌統合の主要例は関西地区の「倦鳥」「山茶花」「同人」「早春」「俳林」「火星」「琥珀」「青嵐」の八誌が合併、同年十月に「このみち」一誌となったこと、自由律系は「層雲」「海紅」「陸」が合併、同年六月に「俳句日本」一誌となったこと等である。(川名大「戦中の用紙統制と俳誌統合」『昭和俳句 新詩精神の水脈』有精堂、平成七)

 ここで挙げられている「琥珀」は日野草城が指導的立場にあった「旗艦」が雑誌統合により廃刊となり他誌と合併して昭和一六年六月に生まれた俳誌だ。新興俳句関連の俳誌は京大俳句弾圧事件など数回の弾圧によって昭和一五年以降壊滅状態になるが、それでも生き延びた「旗艦」でさえ「琥珀」に転じ、しかしその「琥珀」もさらなる合併を経験することになったのである。「琥珀」に限らず、四ヶ月だけ発行が止まったホトトギスの周囲にこうした俳誌が数多くあったことはいうまでもない。

 ただしこの問題に関しては、虚子一人を断罪したところでほとんど意味がないと思う。というのも、俳誌統合におけるホトトギスへの優遇措置は虚子の独断で行なえたものではなく、先に述べられているように「幹事会」の議決によるものであったのだし、さらにいえば、虚子を師と仰ぐ多数の人々がホトトギスという結社をほとんど独り勝ちの状態にさせていた俳壇の構造にこそ問題があるからだ。とすれば、極論をいうなら、ホトトギスに命がけで投句し続けた出征俳人にもこの構造を支えてしまった責任の一端があるとも考えられる。

 もっとも、命がけで俳句を詠んでいた出征俳人たちが心身に受けた傷の深さやその遺族や知人の傷を思うとき、このような批判はあまりに冷淡なものであるにちがいない。また、出征俳人の作品を目の前にした遺族や知人が番組内で涙を流しているのを見ると、彼らの感情の回復がいかに困難なものであるのかを思い知らされもする。それゆえ、彼らの加担していた構造的な暴力について問いただすのは時期尚早であるという感じもする。

 それに、たとえばある俳誌が多分に後ろ暗い背景を持っていたとして、その俳誌に僕の家族が命を賭して俳句を投じていたら、僕はこのような批判をすることができないかもしれない。あるいは、もしも僕が師事する俳人の主宰誌だけが統合を免れるような事態になったなら、僕はむしろ嬉々として投句し続けるかもしれない。思想的に異なる流派への弾圧を横目にしながらも、主宰者や俳句仲間とともに「戦争俳句」という悲しくも美しい「挨拶」を交わし続けるような、多分にさもしいふるまいに僕もまた身を落とすかもしれない。

 結局のところ、僕が「戦火のホトトギス」の命がけの投句者たちを批判するのは、僕が偶然にも彼らの生死に深いところでかかわりをもたないような、いわば「おめでたい」立場にいるからにすぎない。でも僕は出征俳人ではないし、その遺族でも知人でもない。また、彼らの痛みや悲しみを理解できるなどと豪語できるほどの図太さも持ち合わせていない。

 さらにいうなら、番組内で紹介されていた出征俳人たちに何の罪もないと考えることは、あまりにも彼らを馬鹿にしていると思う。僕には、戦時下におけるホトトギス陣営の優遇ぶりについて全くの無知であったとは思えない。休刊・廃刊・統合の憂き目に遭っていたのはもちろん俳誌だけではなかった。それなのに自分の購読する俳誌が(ページ数が減少していったとはいえ)戦局が悪化するなかでも継続していたということについて、本当に何の疑問も持たないですましていられるほど、彼らは罪のない感覚の持ち主だったのだろうか。

 また、仮に彼らが罪悪感も抱くことなくホトトギスに投句し続けていたというならば、事態はきわめて単純である。あるいは、彼らがその罪悪感ゆえに俳句をやめたというのであれば、これも単純な話である。しかし、もしも彼らが一抹の罪悪感を抱きながら、それでもホトトギスに投句し続けたというのであれば、彼らが投句という行為に掛けていた思いの切実さはむしろ計り知れないものになる。このとき、彼らを断罪することは、決して彼らへの侮蔑に終わるものではなくなる。

 番組では、投句者の一人である細木大三郎がホトトギスに寄せた短文も紹介されていた。

拙句入選の栄を浴したことを敵機の下に知り泣いて喜ました。今度こそはと思ひつゝ今日迄不思議に永へて来た命でございました。

 細木は軍医として三度の激戦をくぐり、多くの仲間を失ったという。そのようななかであっても俳句を送り続け「入選の栄」を願い続けることができたのは、いうまでもなく他の俳誌を圧倒する確実さでホトトギスが発行されていたからである。そして、その状況に自身が進んで加担していたからである。そのような投句者のありようにまったく罪がないとは僕は思わない。しかし、多少なりとも彼の罪深さを思うとき、この細木の一文は少し恐ろしいような、近づきがたいような、ある種の美しさをもって迫ってくるように僕には感じられる。


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