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句集『広島』に思うこと

 Ⅰ 『広島』は「新しい重信論」を生むか  『俳句四季』一二月号の時評で筑紫磐井が句集『広島』をとりあげている。『広島』は昭和三〇年八月六日に句集広島刊行会によって発行された合同句集であり、五四五名の一五二一句が掲載されている。六七四名(一一〇二三句)の応募作のなかから選出した句のほか、寄稿を依頼した俳人の句も収められている。最近になって刊行会の常任編集委員だった結城一雄宅から五百冊の『広島』が発見され、遺族が俳句関係者に配布した。今回筑紫がこの句集をとりあげたのも、こうした経緯で筑紫のもとにも届いたためであるらしい。 ただ驚いたのは高柳重信の『罪囚植民地』にある有名な 杭のごとく 墓 たちならび 打ちこまれ を見つけたことだ。『罪囚植民地』にある多くの句が『広島』に結びつけられている。こんな解釈をしている論者はいなかったように思う。果たして誰がこの句を原爆の句と理解できたであろうか。ここに新しい重信論がはじまるかもしれない。忘れられた句集には忘れられた真理があるかも知れないのだ。(筑紫磐井「原爆俳句三題」)  『広島』には高柳の句が三句収録されている。いずれも『罪囚植民地』のなかに収められている句だ。たった三句をもって「『罪囚植民地』にある多くの句」といっているのは奇妙だが、それ以上に、〈杭のごとく〉について「果たして誰がこの句を原爆の句と理解できたであろうか」と述べているのはやや早計ではないかと思う。というのも、すでに昭和三一年の時点で、『罪囚植民地』の作品が書かれた頃(昭和二七年~三一年)の状況を、高柳自身が次のように振り返っているからである。  この期間に、私をとり巻く社会の動きは、きわめて数多くの激昂を惹起する事件によつて満ちていた。しかし、私は、あくまでも、私自身に沈着であることを要求し続けた。その間に俳壇では、いわゆる三十代作家の顕著な進出があつた。彼等は、火のように燃えて、作品を書いた。私は、彼等にいくらかの共感をおぼえながら、なお且つ、氷のごとく沈着でありたいと、いよいよ深く誓うところがあつた。彼等が火のごとく人の心を焼くときに、私は氷のように人の心を焼きたいと思つた。(『黒彌撒』琅玕洞、昭和三一)  川名大によれば、高柳のいう「彼等」とは「社会性俳句を推進した「風」グループ」を指すようだ(「青春と俳句―飯田龍太と高柳重信を中心として」『モダン都市

小説のなかの俳句2020-2022

 「俳句」とは何か、という問いに向き合うとき、句集や俳句評論集だけを読んでいたのではわからないことがたくさんある。だから、俳句の登場する小説やエッセイ、さらには文学とは異なる学問分野の論文において引用される俳句作品やその解釈を読むことは、句集や俳句評論集を読むのと同じくらい重要なことだと思う。  たとえばつい先ごろ、浅見光彦シリーズの番外編として『浅見家四重想 須美ちゃんは名探偵!?』(内田康夫財団事務局、光文社文庫)が刊行された。浅見家の人々が巻き込まれるささやかな事件を、住み込みのお手伝いである吉田須美子が解決していく短編集だ。須美子は高校卒業とともに浅見家で働き始め、現在は九年目になる若い女性である。収録作の一つ「雅な悩みごと」は、浅見家当主の息子で中学二年生の雅人がクラスメイトの俳句に盗作かもしれないという疑いを抱いたところから話が始まる。吉田は光彦の何気ない一言に重要なヒントを得て、証拠をつかむために「光彦坊っちゃまならどうするかしら‥‥‥?」と、光彦の思考を模倣することで真相に近づいていく。彼女は本作において明らかに光彦のミニチュア版としての役割を担っている。  俳句を介して織りなされる男性たちの物語の解説者として「男勝りの」活躍を見せる女性、という構図には既視感があった。つい昨年「俳諧冒険小説」という触れ込みで刊行された『芭蕉の娘』(佐藤恵秋、ハヤカワ時代ミステリ文庫)における構図である。  『芭蕉の娘』は、松尾芭蕉の死後、その娘として登場する「雅」「風」という双子の姉妹が「奥の細道」の行程を辿りながら父の残した句に隠された謎を解明していくという、かなり風変りな物語だ。彼女たちは冒険の途中で次々と男性たちからの暴力の対象となり、同時に男性たちによる庇護の対象ともなる。「男心を擽る女性に成長していた」姉の雅はこの冒険の途中で性暴力を受け精神を病んでしまうが、姉とは真逆の風は武術に優れ鋭い知性を持ち、逆境にもめげずついに父の生涯やその句の裏にある男たちの物語に辿りつくことに成功する。  今年西村京太郎が亡くなったが、その直前に中公文庫から再刊された十津川警部シリーズの一つ『松山・道後 十七文字の殺人』も、やはり男たちの物語だ。  これは、十津川警部の同僚の亀井刑事の俳句が松山市の俳句賞に入選したことがきっかけで、同賞に寄せられた奇妙な俳句について相談を受け

ドナルド・キーンへの違和感

 ドナルド・キーンの著作には特に魅力を感じたことがなかったが、それはなぜなのか、あまり考えたことがなかった。しかし、先日『ドナルド・キーンと俳句』(毬矢まりえ、白水社)を読んで、その理由が少しわかったような気がした。毬矢は第二芸術論に対するキーンの発言をいくつか引いているが、そのなかに次のようなものがある。   私は桑原の見解に大体賛成しているが、「第二芸術」が存在することを大変ありがたく思っている。カメラさえ持っていたら誰でも自己の中に隠されている芸術的欲求を発揮できるように、小説や現代詩をどうしても書けない人でも俳句を作って楽しめるのである。素人の写真や俳句のなかに玄人の舌を巻かせる良さがあることもある。(『日本文学を読む・日本の面影』新潮社、二〇二〇)  キーンの発言に何ら理解できないところはない。ともすれば、まるで第二芸術論に対する虚子の態度と似ているようにさえ思えてくる。しかしまさにそのこと―つまり、キーンが日本語で明快に語り、僕のように日本語を母語とする者がそれを問題なく理解してしまうとき、その、あまりに心地よいコミュニケーションに、どこか危ういものを感じてしまうのである。  たとえば、在日朝鮮人の鄭暎惠は自身が母語とする日本語にまつわる苦しみについて次のように語っている。   移民は、一世はもちろん、言葉の上では完全なネイティブ・スピーカーに見える三世までもが、その言語が内包する意味的世界を自分のものにできずにいると言います。これは、私にも痛いほどよくわかります。こんなに流暢に日本語を話しているようでも、私にとって日本語はやはりいまだに外国語です。外国語が上手になってもぬぐい去ることのできない限界と暗闇を、私は日本語に対しても外国語同様、度々感じるからです。その意味的世界の外に私は立たされているのだ、と。(略)では、こんな私にとって母語とは何でしょうか。そもそも母語と呼べるものはあるのでしょうか。母語を奪われている状態とは、至高の現実をもちえない状況だといえるでしょう。そこから発生する不安や自明性の喪失を抱えて生きなければならないということ。(リサ・ゴウ、鄭暎惠『私という旅 ジェンダーとレイシズムを越えて』青土社、一九九九)  キーンのいう「小説や現代詩をどうしても書けない人」「素人」とは、「俳句を作って楽しめる」人のことでもあるようだ。そのすばらしさ

「ぼくら」に織り込まれた「わたし」

 暮田真名が川柳句集『ふりょの星』(左右社)を上梓した。二〇一七年から書きはじめた暮田がこれまでの作品から二五〇句をまとめたものである。   いけにえにフリルがあって恥ずかしい  県道のかたちになった犬がくる  十字路がある水でよかった  寵愛を受けて現像液のなか  ティーカッププードルにして救世主 その「あとがき」で暮田は次のようにいう。   私は川柳に自分の名前を教えたことがありません。  川柳は私から何も聞き出そうとしません。私の性別も、だれと親しく付き合っているのかも。いままでに経験したかなしみやよろこびも、なにを憎み、なにを大切にしているのかも。どんな本を読み、なにを美しいと感じるのかも。  それで私は安心して書きはじめることができたのです。  暮田は『ふりょの星』刊行に伴いウェブ上で短期連載を行なっている。その第一回「川柳は(あなたが思っているよりも)おもしろい」では、川柳が「『五七五で季語がいらないやつ』であると同時に『サラリーマンが会社や家庭生活の愚痴を吐き出すための手段』であり『時事ネタを絡めたダジャレみたいなやつ』であるというパブリックイメージ」を作り上げているサラリーマン川柳について述べている。  最初に紹介した過去3年の受賞作とあわせて考えれば、「第一生命サラリーマン川柳コンクール」という場において前提とされる「サラリーマン」とは必ずといっていいほど妻ないし子を持っていて、つまり「家庭」を築いており、家庭内では適度に疎まれているものの、会社と家庭の板挟みにも耐えられる健康な心身を持ち合わせ、「理想のプロポーション」を失った妻へ非難の視線を向けたり、妻のとりとめもないおしゃべりに嫌気がさしたりしている「男性」であることが分かるだろう。(略)  サラリーマン川柳の「笑い」を支えているのはおびただしいほどの固定観念と規範意識である。  暮田の志向する川柳とは、いわばこうした「おびただしいほどの固定観念と規範意識」から離れることで「安心して書きはじめる」いとなみによって生まれるものであるのだろう。  先のウェブ連載において暮田はサラリーマン川柳とは異なる川柳の例として、なかはられいこの『脱衣所のアリス』(北冬舍)を紹介している。   かつがれて春の小川になってゆく  朝焼けのすかいらーくで気体になるの  またがると白い槿になっちまう  ところで、以前

俳句にできること―『シベリアの俳句』と「移民俳文」について―

 『シベリアの俳句』(ユルガ・ヴィレ(文)、リナ板垣(絵)、木村文(訳)、花伝社)は、ともすればシベリア抑留者の俳句についての本と見まがうようなタイトルだが、そうではない。これは、第二次世界大戦中にリトアニアの小さな村からシベリアへと強制移送された人々の物語である。  バルト三国の一つであるリトアニアは一九四〇年にソ連に占領され、ナチス・ドイツによる占領とホロコーストを経て一九四四年にソ連に再占領された。物語は一九四一年のソ連占領下のリトアニアから始まる。本書における「俳句」とは、強制移送を経験した祖母の日記を読むなかで見出したあるイメージにヴィレが与えた名のことだ。  私の父の母である、私の祖母は、自分の子どもたちとともにシベリアに強制移送された。そして何年か後に、流刑地での記憶を書き留めた。小さなノートに、簡素な鉛筆で書いていた。(略)彼女は自然について、助けてくれた親切な現地の人々について、希望について、信仰について、綴っていた。恨みや怒りはなかった。その文章は美しく穏やかだった。そしてある日、ひとつの言葉が頭に浮かんで、私はその言葉を声に出した―俳句。その感覚はこの短く深淵な日本の詩にあった。(「日本の読者へのあとがき」)  本書には日本好きのペトロネレという女性が登場する。主人公の少年アルギスの叔母として創作された人物で、ヴィレのいうところの「俳句」のイメージを形象化したようなキャラクターだ。物語の冒頭、ソ連兵に連れて行かれるアルギスたちの荷車にペトロネレが乗り込んでくる。彼女が持参していた本は捨てられてしまうが、兵士たちは「むねのところにかくした赤い表紙の本だけには気づかなかった」。それが俳句の本だったのである。以後、この物語には「俳句」が現れるようになる。  過酷な行程を経てようやく強制収容所に辿りついた一行は、その夜、バラックの冷たい床の上で眠った。アルギスはこの夜のペテロネレについて、「マルティナスの羽根のうえに横になると、ペトロネレおばさんは昔話をしてくれた」と語る。マルティナスとはアルギスの愛するガチョウだ。移送中に兵士によってすでに殺されてしまったが、物語にはその後もしばしば登場する。アルギスにとって「ゆうれい」はいつもそばにいる存在であるからだ。  さて、ペトロネレが語ったのは次のような昔話だった。  むかしむかし、ある村に日本人がいました

平凡さについて ―ハンセン病患者と俳句―

  先頃、清原工による北條民雄論『吹雪と細雨 北條民雄・いのちの旅』(皓星社)の新版が刊行された。  昭和八年、一八歳だった北條民雄はハンセン病の発病を宣告され、翌九年に全生病院(現・国立療養所多磨全生園)に入院した。さらに翌一〇年には「間木老人」によって本格的な文壇デビューを果たし、まもなく「いのちの初夜」で注目されるが、一二年には腸結核と肺結核により亡くなっている。  北條が全生病院に在院していたのは四年ほどだが、偶然にもこの期間に高浜虚子が武蔵野探勝の一環として来院している。昭和一〇年一一月三日のことであった。清原によれば、全生病院にはさまざまな文化人が訪れて患者のなかに生まれていた各種のサークルなどを指導するなど、その振興を促す役目を果たしていたという。虚子の訪問にもそうした振興・促進の意味合いが含まれていたのだろう。  北條は虚子訪問の様子を次のように記している(「癩院記録」『改造』昭和一一・一〇。表記は『吹雪と細雨』による)。 高浜虚子が来院されたことがあった。氏は、この院内から出ている俳句雑誌『芽生』の同 人達を主に訪問されたのであるが、患者達はほとんど総動員で集まった。氏はゆっくりと、誰にも判っている事を誰にも判るようにほんの五六分間話して帰られた。患者達はあっけないという顔で散ったが、しかしその五六分間の印象は強く心に跡づけられた。そして今もなお時々その時の感銘が語られている。  「芽生」とは昭和二年に院内で結成された俳句サークル「芽生会」の俳誌である。当時はホトトギス同人の齋藤俳小星が指導的立場にあった。虚子の訪問に「ほとんど総動員で集ま」り、わずか数分の印象の「感銘」をその後も語る患者たちの喜びように対する北條のまなざしには、どこか冷めたところがある。清原は北條について、「サロン的文芸に対する舌鋒は厳しい」と評しているが、やや皮肉っぽいこの一文にも、そうした北條の舌鋒の気配が感じられる。ハンセン病患者の俳句といえば村越化石のそれが知られているが、北條がこの一文を記した当時は患者にとって長島愛生園の太田あさしや栗生楽生園の浅香甲陽といった化石の先達がようやく活動を始めたばかりであり、俳句は専ら慰安の具であった。  同じく院内で発行されていた文芸誌「山櫻」に対し、北條はいう。 (略)もし自己を現代人とし現代の小説を書きたいと欲するなら、その苦しみそ

それは僕らのものではない  ―高野ムツオの震災詠について―

 高野ムツオが『あの時 俳句が生まれる瞬間』(朔出版)を上梓した。『語り継ぐいのちの俳句 3・11以後のまなざし』(朔出版、二〇一八)所収の第三章「震災詠一〇〇句 自句自解」を佐々木隆二の写真とともに再構成し、加筆修正したものである。収録された一〇〇句はいずれも『萬の翅』(角川学芸出版、二〇一三)『片翅』(邑書林、二〇一六)の収録句だ。  『あの時』を読み進めていくと、高野の震災詠とははたしてどこまで個人のいとなみとして行なわれたものであったのか、次第に疑問に思われてくる。  靴を鳴らして魂帰れ春の道  この句について高野は「ベランダから毎年見える微笑ましい光景」としての「園児たちの春の散歩」であるとし、「津波にさらわれた子供たちも、きっと、その列に加わっているに違いない」と記す。制作されたのは震災の翌年。すでに一〇年が経過し、当時この句に詠まれた生者としての園児たちは一〇代の若者になっていることだろう。一方で、「津波にさらわれた子供たち」は―。  自解をふまえるなら、この句が傷ましいのは、この句を読み返すたびに、「津波にさらわれた子供たち」の「魂」が詠まれた時点やこれを過去に自分が読んだ時点から物理的な時間が経過してしまっているのをいつも感じるからだろう。そして、死者と生者とに突然分断されてしまったということの取り返しのつかなさに、いつでも読み手を立ち戻らせるからだろう。この取り返しのつかなさは、かけがえのない対象を喪失したという悲哀にのみとどまるものではない。その悲哀はともすれば、言葉にできないほどの虚しさへと転じていく。  いわばこの句は、いつまでも明けることのない「喪」の時間へと読み手を引き込んでしまうのである。このような高野の仕事は、「津波にさらわれた子供たち」を我がこととしてとらえるようなまなざしから生まれたものではないだろうか。この句に限らず、『あの時』には高野個人を超えた主語によって詠まれたかのような句が散見される。   クリスマスプレゼントだと遺骨抱く  十二月二十五日付の新聞に、津波で行方不明だった少女の遺骨の欠片が父親のもとに戻ったという記事を見つけた。(略)父親は避難先の長野県白馬村から六年近く捜索に通い続けていた。喜びながらも「すべて見つけるまで捜し続ける」と語っている。遺骨を抱き、「娘からのクリスマスプレゼントを受け取った気がする」と呟い