小説のなかの俳句2020-2022

 「俳句」とは何か、という問いに向き合うとき、句集や俳句評論集だけを読んでいたのではわからないことがたくさんある。だから、俳句の登場する小説やエッセイ、さらには文学とは異なる学問分野の論文において引用される俳句作品やその解釈を読むことは、句集や俳句評論集を読むのと同じくらい重要なことだと思う。

 たとえばつい先ごろ、浅見光彦シリーズの番外編として『浅見家四重想 須美ちゃんは名探偵!?』(内田康夫財団事務局、光文社文庫)が刊行された。浅見家の人々が巻き込まれるささやかな事件を、住み込みのお手伝いである吉田須美子が解決していく短編集だ。須美子は高校卒業とともに浅見家で働き始め、現在は九年目になる若い女性である。収録作の一つ「雅な悩みごと」は、浅見家当主の息子で中学二年生の雅人がクラスメイトの俳句に盗作かもしれないという疑いを抱いたところから話が始まる。吉田は光彦の何気ない一言に重要なヒントを得て、証拠をつかむために「光彦坊っちゃまならどうするかしら‥‥‥?」と、光彦の思考を模倣することで真相に近づいていく。彼女は本作において明らかに光彦のミニチュア版としての役割を担っている。

 俳句を介して織りなされる男性たちの物語の解説者として「男勝りの」活躍を見せる女性、という構図には既視感があった。つい昨年「俳諧冒険小説」という触れ込みで刊行された『芭蕉の娘』(佐藤恵秋、ハヤカワ時代ミステリ文庫)における構図である。

 『芭蕉の娘』は、松尾芭蕉の死後、その娘として登場する「雅」「風」という双子の姉妹が「奥の細道」の行程を辿りながら父の残した句に隠された謎を解明していくという、かなり風変りな物語だ。彼女たちは冒険の途中で次々と男性たちからの暴力の対象となり、同時に男性たちによる庇護の対象ともなる。「男心を擽る女性に成長していた」姉の雅はこの冒険の途中で性暴力を受け精神を病んでしまうが、姉とは真逆の風は武術に優れ鋭い知性を持ち、逆境にもめげずついに父の生涯やその句の裏にある男たちの物語に辿りつくことに成功する。

 今年西村京太郎が亡くなったが、その直前に中公文庫から再刊された十津川警部シリーズの一つ『松山・道後 十七文字の殺人』も、やはり男たちの物語だ。

 これは、十津川警部の同僚の亀井刑事の俳句が松山市の俳句賞に入選したことがきっかけで、同賞に寄せられた奇妙な俳句について相談を受け、やがて山下という大学教授の殺人事件の捜査へと結びついていく、というものである。

 この作品に登場する俳句同人誌「HAKUBA」は男性優位のコミュニティとして描かれている。興味深いのは、山下を殺した犯人はいずれも男性で、山下のために死ぬ鹿島も山下保子も女性だということである。さらにいえば、彼女たちはいずれも山下の死の真相に辿りついていながら、生きていられなかったという点でも共通している。『芭蕉の娘』の風のようではありえなかった二人の死後、十津川が「証拠を見つけて、それを、山下保子の墓前に捧げるつもりですよ。それが刑事の仕事ですから」と彼女たちの物語を「刑事の仕事」として領有していくさまは、十津川という男性のために女たちが死んだかのようでもある。

 こんなふうに見ていくと、俳句の読み書きにまつわる人間関係の表象がいかにも男性優位なものとして流通しているように見える。くわえて、ここに恋愛や性的関係が絡んでくるものも少なくない。

 一昨年青い鳥文庫から出た『作家になりたい!(7)俳句で好きを伝えよう!』(小林深雪)は、作家を目指している中学二年生の宮永未央を主人公とする「作家になりたい!」シリーズの第七作目だ。スーパーアイドルの永瀬と知り合いになり、永瀬がテレビ番組で俳句を披露することになったことをきっかけに二人は俳句の勉強をすることになる。永瀬とともにいられることを喜びつつ、彼女は俳句の面白さを知っていく。俳句というこれまで自分と縁の遠かった表現形式を獲得する際のぎこちない身振りを脚色することで、それを大きなストーリー(主人公の恋愛の成就と作家という夢の成就)を駆動させる一時的な推進力として奉仕させているような作品である。

 井上荒野が今年上梓した『生皮 あるセクシャルハラスメントの光景』(朝日新聞出版)のなかにも女性を主人公とする話が含まれている。大学の事務員として働く五十歳の池内は、五十人余りの会員からなる俳句結社に所属している。あるとき、小説講座の講師によるセクハラが話題になるなかで、週刊誌が自分たちの俳句結社のセクハラ事例をとりあげたことを知る。同じ結社内の篠原桃子が週刊誌に告発したのである。その記事を読み、池内をはじめ、主宰と性的な関係を持っていることをお互いに知っている女性たちは、しかし話題の核心に触れることができない。「篠原桃子も、おやじ連中も、結社のほかの人たちだって、わかりっこないのよ、私たちと先生との関係は」という曖昧な言葉でつかのまの安堵を得る。その後、先生が死の病に倒れてしまう。

遼子はショックを受けていた。先生が死の病に斃れたことを聞かされたのに、ちっとも悲しくならないことに。あるのは恐れだけだった。先生が死んでしまったら、私はこれからどうしたらいいのだろう。

 孤独な生活のなかで先生との歪んだ関係に依存することでかろうじて自らの存在の確かさを認めていた彼女にとって、「俳句」とは何であろうか。あるいは、先の宮永未央と池永との間には、はたしてどれほどの違いがあるのだろうか。


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