俳句にできること―『シベリアの俳句』と「移民俳文」について―

 『シベリアの俳句』(ユルガ・ヴィレ(文)、リナ板垣(絵)、木村文(訳)、花伝社)は、ともすればシベリア抑留者の俳句についての本と見まがうようなタイトルだが、そうではない。これは、第二次世界大戦中にリトアニアの小さな村からシベリアへと強制移送された人々の物語である。

 バルト三国の一つであるリトアニアは一九四〇年にソ連に占領され、ナチス・ドイツによる占領とホロコーストを経て一九四四年にソ連に再占領された。物語は一九四一年のソ連占領下のリトアニアから始まる。本書における「俳句」とは、強制移送を経験した祖母の日記を読むなかで見出したあるイメージにヴィレが与えた名のことだ。

 私の父の母である、私の祖母は、自分の子どもたちとともにシベリアに強制移送された。そして何年か後に、流刑地での記憶を書き留めた。小さなノートに、簡素な鉛筆で書いていた。(略)彼女は自然について、助けてくれた親切な現地の人々について、希望について、信仰について、綴っていた。恨みや怒りはなかった。その文章は美しく穏やかだった。そしてある日、ひとつの言葉が頭に浮かんで、私はその言葉を声に出した―俳句。その感覚はこの短く深淵な日本の詩にあった。(「日本の読者へのあとがき」)

 本書には日本好きのペトロネレという女性が登場する。主人公の少年アルギスの叔母として創作された人物で、ヴィレのいうところの「俳句」のイメージを形象化したようなキャラクターだ。物語の冒頭、ソ連兵に連れて行かれるアルギスたちの荷車にペトロネレが乗り込んでくる。彼女が持参していた本は捨てられてしまうが、兵士たちは「むねのところにかくした赤い表紙の本だけには気づかなかった」。それが俳句の本だったのである。以後、この物語には「俳句」が現れるようになる。

 過酷な行程を経てようやく強制収容所に辿りついた一行は、その夜、バラックの冷たい床の上で眠った。アルギスはこの夜のペテロネレについて、「マルティナスの羽根のうえに横になると、ペトロネレおばさんは昔話をしてくれた」と語る。マルティナスとはアルギスの愛するガチョウだ。移送中に兵士によってすでに殺されてしまったが、物語にはその後もしばしば登場する。アルギスにとって「ゆうれい」はいつもそばにいる存在であるからだ。

 さて、ペトロネレが語ったのは次のような昔話だった。

 むかしむかし、ある村に日本人がいました。地位のない、ただの詩人でした。毎日、米を三つぶ食べ、詩を三行よみました。その言葉には、宇宙の深さが隠れていました。

 三行の詩とはいわゆる俳句のことだろう。彼女は昔話の最後に言う。「さあ、空を見上げて、何が見えるか言ってごらん…」。そしてアルギスは「たくさんの星が空いっぱいうめつくしていた」ことを見つける。これがヴィレにとっての「俳句」なのだ。「自然について、助けてくれた親切な現地の人々について、希望について、信仰について」、「美しく穏やか」に綴っていた祖母の日記から見出したヴィレの「俳句」とはこのようなものであったのだ。

 その後、アルギスたちは合唱隊を結成することになる。「リトアニア語の読み書きはどうなんだ。こどもらが小さなロシア人になりかけているぞ」「泣きたいときに、どう歌うの?」「何を歌うんだ?食べ物がほしい、と歌うのか?」という大人たちの非難のなか、ペトロネレは「日本語の詩みたいな、明るい歌を作ろうよ。俳句をリトアニア語で歌うんだよ。そうすれば、日々の悩みも吹き飛ぶよ」と提案する。満月の夜、合唱隊は最初のリハーサルを行う。降り始めた雪に挨拶をして、アルギスたちは歌った。そのさまは合唱というより、それぞれが思いの断片を歌っているかのようだ。彼らは歌う。ある者は「ぼくは自転車の夢を見ていた…」、またある者は「白い晴れ着のドレス…」、あるいは「スカーフに三つの豆が結ってある…」「くつしたをあまないと…」「赤い傘を開こう。雨がふっているよ…」「これはただのつゆ…」「こどもたちのまつげの上でとけていく…」。

 彼らにとって「俳句」とは過酷な現実を生き抜くための手立てだ。母語の読み書きもじゅうぶんでなく、自らのアイデンティティが危機に晒され、飢えと涙のなかで何をどう歌ったらいいかもわからないとき、彼らは彼ら自身の「俳句」を母語で歌う。日本語の読めない彼らは実際の俳句を知らない。だが「俳句」を歌うことはできた。それは「日本語の詩みたいな、明るい歌」を歌うことを意味していたからだ。だから、アルギスもまたこんなふうに歌っている。「ガチョウの羽根が降っている…」―そう、この雪の夜、アルギスが歌ったのは、マルティナスの歌だった。

 こんなふうに、のっぴきならない自らの生のありようを言語化しようとするいとなみが、断片的な相貌をもつ俳句という表現形式をたぐり寄せるということは、どうやら他にも例があるようだ。

 たとえば、先日『現代詩手帖』(二月号)で「アメリカ詩の現在」と銘打った特集が組まれていた。そこで紹介されている作品の一つに、オーシャン・ヴオンの「移民俳文」(原題Immigrant Haibun)がある。散文ふうに記された詩の末尾に俳句が置かれていて、「おくのほそ道」などを思わせる構成の作品である。日系移民の俳句や日本語以外の言語で詠まれた俳句は時折目にするけれど、英語で書かれた「移民」の「俳文」が存在するということには、何だか虚を突かれたような気がした。

 同号に「今、目前にひらかれる自由」を寄稿している佐峰存はアメリカ現代詩と日本とのかかわりについて、「現在のアメリカ詩はパウンドらのイマジズムを一つの源流としているから、その深部で短歌・俳諧の流れも汲んでいる」としたうえで、「若手詩人ではヘイズによる詩形の探索、ヴオンや同様にアメリカで活躍しているエイミー・ネズィグマタティルらが俳文を書いている」と述べている。

 現在のアメリカ詩における「俳文」とはいかなる表現形式なのだろうか。佐峰は自身のブログでもネズィグマタティルの詩を紹介している。ネズィクマタティルは「自身の個人的な体験を重視し詩作を行う。彼女の作品の“語り手”と(彼女自身である)“作者”は限りなく近いところにいる」。そして、「自身の体験の“器”としてネズィクマタティルが高い熱量で取り組んでいるのが俳文(Haibun)だ」。

 「語り手」と「作者」が限りなく近いところにいるような詩を書いているのは彼女だけではない。佐峰は先の「今、目前にひらかれる自由」のなかで次のように述べる。

 現代はマイノリティ詩人の時代ということが出来るだろう。アメリカ詩の最前線で活躍している詩人の多くがマイノリティだ。彼らの、自身の背景を前面に出した自伝的な作品が幅広い支持を集めている。(略)現在の詩人達は社会の力学を明るみに出すための媒介として自己を位置づける。自伝の裏に込められた社会的なメッセージを読み解くべく、読み手は書き手の人種的・文化的背景や性的指向・性自認などを予め理解した上で作品と向き合う。

 同じ『現代詩手帖』の座談会記事でも、ドロシア・ラスキーが「アメリカで目覚ましい活躍を見せる若手詩人たちの多くは、作品の「私」に自分自身を重ねながら書いています」と発言している(「沈黙を破るアイデンティティ声」)。ネズィクマタティルは現在のアメリカ詩のこうした潮流のなかにある書き手だが、ヴオンもまたその一人である。そして「俳文」とは、どうやら、そうした書き手が自らの表現形式として選択しているものの一つであるようだ。

 ヴオンは一九八八年に生まれ、二歳でアメリカに移住したベトナム系アメリカ人だ。ヴオンは自伝的小説『地上で僕らはつかの間きらめく』(木原喜彦訳、新潮社、二〇二一)も発表しているが、これは一九九〇年にアメリカに移住したベトナム人家族の物語だった。文字の読めない母への手紙という体裁で、祖母、母、そして「僕」という三代にわたる苦難の歳月が語られてゆく。ベトナム戦争、移民としての過酷な生活、同性の少年への恋、さまざまな喪失の体験―「僕」の手紙からそこに浮かび上がるのは痛ましい記憶の断片の織りなす不思議な美しさだ。それは『シベリアの俳句』で合唱団が歌った「俳句」の美しさととどこか似ている。

 先のネズィクマタティルは、自らの取組む「俳文」の特徴について次のように説明している(https://blog.pshares.org/the-pie-plate-serving-up-a-slice-of-travel-t hrough-the-haibun-poetic-form/)。すなわち、「俳文」とは散文詩と俳句からなる詩形式であり、とくにその散文詩の部分では、あるフレーズと単語を繰り返しながら、長文と断片的な文章とで構成していく、というものだ。

 そういえばヴオンの『地上で僕らはつかの間きらめく』でも、猿や蝶などの特定のモチーフが、断片的な記憶の語りのなかに繰り返し織り込まれている。これはネズィクマタティルのいう「俳文」のスタイルに近い。

 同じように、「移民俳文」でも荒れ狂う海をゆく船が繰り返し現れる。そして、その船に乗る「私」や他の人々のふるまいはベトナム戦争に巻き込まれた女性たちや移民(さらには性的マイノリティ)の困難な生の記憶を想起させる。たとえば、「移民俳文」は次のように始まる。

 そして、息を吸うみたいに海が、私たちの下で膨らんだ。あなたがどうしても何か知りたいなら教えるけど、最も過酷なつとめは、一度の生涯を送ること。沈む船にいる女性は救命ボートになること―肌がどんなに柔らかくても。

 だが、船は実は「ワインの瓶の中」にあり、瓶の外ではあたたかい暖炉のある部屋でクリスマスパーティーが開かれている。「皆が踊っているその傍らで、小さな男女は緑の瓶から出られないまま、人生の終点で待っている誰かにこう言われるのを想像している。こんな場所までよく来ましたね、どうしてこんな遠くまで?」―ここから垣間見えるのは困難な生を生きる女性たちの痛みだ。『地上で僕らはつかの間きらめく』と「移民俳文」とは、そのスタイルにおいても内容においてもひと続きの地平の上にある。

 両者の類似性は、より具体的に、同じフレーズの共有という側面でも確認できる。たとえば、『地上で僕らはつかの間きらめく』においては、一七歳のとき自分の三倍の年齢の男と結婚させられてしまうという祖母のエピソードが語られる。ある夜、男のもとを逃げ出した彼女は夜の街をさまよううちに、男に声をかけられる。名を聞かれた祖母は「ラン」と名乗る。母親が自分を呼ぶときの「七」―彼女は七番目に生まれたから―ではなく、百合を意味する「ラン」として生きてゆくのである。ランはサイゴンで休暇中の米兵を相手にするセックスワーカーとなり、やがて娘が生まれる。彼女は娘に「ホン(薔薇)」と名づける。成長したホンは「僕」を産み、アメリカに渡り指先をぼろぼろにしながらネイルサロンで働くことになる。

 物語の途中、二八歳のランが幼いホンを抱いてベトナムの検問所に佇む場面がある。ホンの父親はここにいる米兵の誰かなのだろうが、それはわからない。「僕」はそれをこんなふうに書く。

 目を向ける場所次第で、そこは美しい国だ。目を向ける場所次第では、未舗装道路の路肩で、一人の女が空色のショールにくるんだ幼い女の子を両腕で抱えている姿が見えるかもしれない。女は子供の頭を手で支えながら身体を揺らす。おまえがこの世に生まれたのは、と女は考える。他には誰も来てくれなかったからだ。

 祖母(ラン)が母(ホン)に向けて語った言葉―「おまえがこの世に生まれたのは」「他には誰も来てくれなかったからだ」―を、ここで「僕」は母に向けた手紙のなかに記している。それは祖母の生のありようを受けとめ引き受けようとする「僕」の切ないふるまいでもあったろう。

 一方「移民俳文」では、ヴオンは「肌がどんなに柔らかくても」「救命ボートになる」しかない女性たちの「過酷な」生を記しつつ、さらに次のように書いている。

あなたがどうしても何か知りたいなら教えるけど、あなたが生まれたのは、他に誰も現れなかったから。船が揺れると、あなたは私の中で膨らんだ。愛の木霊がかたまってできた男の子。

 これが『地上で僕らはつかの間きらめく』において母に向けて語る祖母の言葉と類似しているのは、偶然ではあるまい。ただ、「移民俳文」においては母に向けて語る祖母ではなく、「あなた」に向けて語る「私」でもあり、それはあたかも息子に向けて語る母であるように見える。つまりヴオンは、繰り返される女たちの過酷な生を、彼女たちになりかわるようにして、あるときは小説として、あるときは「俳文」として書きつけているのだ。

 むろん、これは彼女たちの言葉を収奪するふるまいを意味しない。なぜなら、ホンが読み書きができなかったように、女性たちははじめから言葉を奪われているから。とすれば、ヴオンの小説も「俳文」も、むし女性たちの奪われた言葉を取り戻すためにこそ書きつけられたものであったように思われる。

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