平凡さについて ―ハンセン病患者と俳句―

  先頃、清原工による北條民雄論『吹雪と細雨 北條民雄・いのちの旅』(皓星社)の新版が刊行された。

 昭和八年、一八歳だった北條民雄はハンセン病の発病を宣告され、翌九年に全生病院(現・国立療養所多磨全生園)に入院した。さらに翌一〇年には「間木老人」によって本格的な文壇デビューを果たし、まもなく「いのちの初夜」で注目されるが、一二年には腸結核と肺結核により亡くなっている。

 北條が全生病院に在院していたのは四年ほどだが、偶然にもこの期間に高浜虚子が武蔵野探勝の一環として来院している。昭和一〇年一一月三日のことであった。清原によれば、全生病院にはさまざまな文化人が訪れて患者のなかに生まれていた各種のサークルなどを指導するなど、その振興を促す役目を果たしていたという。虚子の訪問にもそうした振興・促進の意味合いが含まれていたのだろう。

 北條は虚子訪問の様子を次のように記している(「癩院記録」『改造』昭和一一・一〇。表記は『吹雪と細雨』による)。

高浜虚子が来院されたことがあった。氏は、この院内から出ている俳句雑誌『芽生』の同 人達を主に訪問されたのであるが、患者達はほとんど総動員で集まった。氏はゆっくりと、誰にも判っている事を誰にも判るようにほんの五六分間話して帰られた。患者達はあっけないという顔で散ったが、しかしその五六分間の印象は強く心に跡づけられた。そして今もなお時々その時の感銘が語られている。

 「芽生」とは昭和二年に院内で結成された俳句サークル「芽生会」の俳誌である。当時はホトトギス同人の齋藤俳小星が指導的立場にあった。虚子の訪問に「ほとんど総動員で集ま」り、わずか数分の印象の「感銘」をその後も語る患者たちの喜びように対する北條のまなざしには、どこか冷めたところがある。清原は北條について、「サロン的文芸に対する舌鋒は厳しい」と評しているが、やや皮肉っぽいこの一文にも、そうした北條の舌鋒の気配が感じられる。ハンセン病患者の俳句といえば村越化石のそれが知られているが、北條がこの一文を記した当時は患者にとって長島愛生園の太田あさしや栗生楽生園の浅香甲陽といった化石の先達がようやく活動を始めたばかりであり、俳句は専ら慰安の具であった。

 同じく院内で発行されていた文芸誌「山櫻」に対し、北條はいう。

(略)もし自己を現代人とし現代の小説を書きたいと欲するなら、その苦しみそのものに対して懐疑せねばならないではないか。癩の苦しみを書くということが、どれだけ社会にとって必要なのか!ということを考えねばならないではないか。彼等の眼には社会の姿が映らぬのであろうか。その社会から切り離された自己の姿が映らぬのであろうか。

 だが、こんなことは俺だけのことだ。彼等はみな楽しくやっている。それでよろしい。ただ俺は誰とも会いたくない。語りたくない。俺は孤独でもよい。絶えず社会の姿と人類の姿を目に映していたい。俺は成長したいのだ。(昭和一一年九月一〇日の日記)

 『夜と霧』で知られる精神科医のフランクルは、人生の意味に関する問題を論じるなかで、三つの価値を提示している(『新版 死と愛 ロゴセラピー入門』霜山徳爾訳、みすず書房、二〇一九)。すなわち創造価値、体験価値、態度価値である。創造価値とは、仕事や芸術などの行動を通じものごとを作り出すことで実現されるもの。体験価値とは自然や芸術などに心を震わせたり愛されたりするなど、ものごとを受容することで自らのうちに現実化するもの。そして態度価値とは、変えられない運命のもとにあるときに実現されるものであり、「たとえば苦悩の中における勇気、没落や失敗においてもなお示す品位」のことだ。この態度価値を重んじたフランクルは、それによって「たとえ創造的に実り豊かでもなく、また体験において豊かでなくても、根本的にはまだなお有意味でありうる」と述べる。創造や体験による喜びのなかにだけ人生の意味があるのではなく、苦悩においてさえ人生の意味は見出しうる。それゆえ、豊かな成果がないということはその人生に意味がないということを決して意味しない。

 また、フランクルは同じく『死と愛』においてヴィルトガンスの言葉(「輝くべきものは燃えることに耐えなければならない」)を引き、「燃えることは苦悩することである」と語り、また「一つの炬火が消えうせても、それが輝いていたということは意味をもっていた」と語る。北條民雄とはまさしく「燃えることに耐え」た者であったろう。そしてその「輝いていた」ことが自他の言葉によって証され語り伝えられてきた者であったろう。

 ―けれど、僕にとって気になるのはむしろ、「楽しくやっている」者として北條が厳しく批判している者たちのほうだ。というのも、たしかに北條ほどわかりやすくはないけれど、僕には、彼らもまた「燃えることに耐え」た者であったように思われてならないからである。

 『吹雪と細雨』の版元である晧星社は『ハンセン病文学全集』(全一〇巻、二〇〇二~二〇一〇)を刊行している。昨年、この全集から短歌・俳句・川柳を抜粋した『訴歌 あなたはきっと橋を渡って来てくれる』(阿部正子編)を刊行したことも記憶に新しい。今回の『吹雪と細雨』の新版刊行も、その根底に、ハンセン病文学を検証し顕彰しようとする並々ならぬ志の存することがうかがえる。

 ところで、この『訴歌』は全集から抜粋した約三三〇〇の作品を「帰りたい」「望郷台」などの事項で分類して掲載しているところに特徴がある。

 帰りたい

秋晴れを散歩このまま故郷まで      山下紫春

 望郷台

小鳥来るここを望郷台とせり      富田ゆたか

 父を知らぬ子

冷奴吾を叔父と書く吾子の文       佐野涼泉

 俳句作品のアンソロジーではあまり見かけないこうした分類方法はこれ自体興味深いものがあるが、それ以上に意外だったのは、こうしたいかにもハンセン病文学「らしい」項目にまじって、「赤蜻蛉」「秋を感じる」「猫の仔」といった項目も含まれていたことだ。

 赤蜻蛉

赤蜻蛉琉球髷のてっぺんに        石垣美智

 秋を感じる

風鈴の音色変って秋の風        村松加代子

 猫の仔

春近き日向に丸き仔猫かな        武田牧水 

 『訴歌』を通読して感じられたのは、なんと多くのハンセン病患者たちがごく「平凡な」俳句を志向していたかということであった。ここでとりわけ重要なのは、彼らにとってこうした句を喜ぶということと自らの生において苦悩するということとは必ずしも無関係ではなかったであろうということだ。

 『訴歌』を繙くと、〈春近き〉の作者である武田の名の下には「1933没(自死28歳)」と添えられている。つまり武田は、北條と同じく、ハンセン病が不治の病とされていた特効薬開発以前の患者だったのである。病死ではないにせよ、身に受けた病に対する苦悩が少なからず自死へと繋がったであろうことは想像に難くない。その武田が小春日和の仔猫のごく平凡なありようをごく平凡な表現で詠むことに、いったいどのような意味があったのだろう。北條は「絶えず社会の姿と人類の姿を目に映していたい」と言い「俺は成長したいのだ」と言う。そして悩み抜いた末に多くの人の記憶に残る優れた作品を完成させた。楚の一方で、武田の句は、決して記憶に残るようなものではない。あまりに平凡だからである。しかし、この平凡は、極限状況のなかで、汚辱にまみれながら必死に生み出された平凡ではないのか。

 そういえば、清原によれば北條がいた頃の「山櫻」には俳小星の元日詠も掲載されていたという。

元日や姉弟のよき遊び           俳小星

隣より獅子舞来り庭つゞき

獅子舞を皆出て見るや百姓家

 たとえば、姉や弟と生き別れになり、二度と会うことを許されない者たちは〈元日や〉をどのように読んだろう。もちろん、家族を思い出し自らの境遇を嘆いたかもしれない。しかし僕は、案外この句を楽しんで読んだのではないかという気がする。だが、この楽しむということは、その実、どれほど困難なふるまいであったろう。

 さらにいえば、そもそも、石垣美智とか村松加代子といった名が添えられているけれど、ここにある名は本名なのだろうか。北條民雄の本名が生誕百年目にしてようやく公表されたように、これらが仮名である可能性はじゅうぶんにある。実際、本名で生きられない苦しみを詠んだ作品は『訴歌』にも散見されるのである。とすれば、「武田牧水」といういかにも俳号らしい名もまた違って見えてくる。すなわち、名を奪われ、仮名で生きることを事実上強制されてきた者が、自らに対し新たに俳号を与えるとはいかなるふるまいであるのか。それは、奪われた自らの名を取り戻すことが極めて困難な状況のなか、本名とは異なる名を積極的に付与することで、人間としての尊厳をとり戻そうとするふるまいの謂であろう。

 ハンセン病患者が人権を侵害されたとして国に対する訴訟を起こし、二〇〇一年にその訴えが認められた際、原告である元患者の一人は「ようやく人間になりました」と発言したことがあったが、いってみれば、ハンセン病患者にとって俳号をつけるということは、人間としての尊厳を取り戻そうとすることではなかったか。それは、逃れがたい病や悲しみを負う者が、それでも生きてゆくために必要とした、ささやかな、しかし切実なふるまいではなかったか。


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